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生ける水

“イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」”

ヨハネの福音書 4章10節

普通の水であればいくら飲んでもまた喉が乾く時がやってきて、渇きを癒すための水を探す必要がありますが、 神が与えてくださる生きた水には、いつでもあなたの内に手が届くところにあり、 乾くことのない喜びと 愛と希望が詰まっているのです。

生きた水はいつでも私たちが欲しい時に求めれば、手に入るところにあるのです。

どんなに美味しい 水が 湧き出ていても、 自ら手を伸ばして汲み上げて飲まない限り自分の内に入らないように、神の素晴らしい働きと導きも、 私たちが求めなければ勝手に内には入り込まないものです。

むしろ 不思議なことに、周りにあるいろいろな否定的な影響は、何もしなくても勝手に内に流れ込んでくるのです。

だからこそ、 定期的に時間を取って、外からの否定的な影響を シャットアウトして、 神から流れ込んでくる生きた水を受け入れて飲むための時間を取る必要があるのです。

少しの水でも十分に喉を潤すように、少しの時間でも神とのつながりを持って、 神の素晴らしい 恵みを受け続けていれば、 あなたの人生は確実に素晴らしい方向に変わっていくのです。 

困難なときこそ神につながり続けるー平安な心を持って前に進むために

“また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。”

創世記 41章52節

困難な状況にあるとき、前向きに正しい歩みをする事はなかなか難しいものです。

感情に流されて、思わず謝った選択や行動をしてしまいがちです。

だからこそ、試練の中にあるときこそ、日々神につながり続け、何か正しい事で何をすべきかをよく考える必要があるのです。

神の前に正しいことを行い続ける時、たとえ状況が好ましくなくても、たとえ不当な扱いを受けるようなことがあっても、神はその中であなたを見守り導いてくださっているのです。

あなたがとても神の導きがあると思えないような状況にあればあるほど、神につながり続けることを訓練されるのです。

私たちはどうしても目に見える状況だけにとらわれてしまうしまうために、困難な状況にあるときほど、意識して、神とのつながりを求めなければ、状況に流されてしまうのです。

でもそんなときこそ、いろいろな自分なりの方法を工夫することができるチャンスです。

特別な音楽や、場所、お気に入りのメッセージや、休息とリラックスの方法等、神と共にある平安な心を取り戻すための方法をいろいろと考案するのです。

そうやって作られた、自分なりの方法がいろいろとあればあるほど、困難な状況の中でも、神の力を受けて前に進みやすくなるのです。

あなたが神と共に歩み、神の素晴らしい守りを実感することができるのなら、周囲の状況がどうであっても、神に与えられた使命とビジョンに向かってまっすぐと歩んでいくことができるでしょう。

あらゆる状況の中で良い面を見ることができるようになる

“あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。”

詩篇 22篇5節

どんな物事にも2つの側面があります。

良いことも悪いことも、それは1つの物事の違う面から見ているに過ぎないことがあります。

子供を持つ事は、人生が豊かになり、そして様々な素晴らしい体験を与えてくれると同時に、そのことによってお金がかかったり、また様々な時間が取られたり、また多くの労苦を必要とすることもあります。

新しい仕事は、持っている才能を引き出し、大きな素晴らしい可能性にチャレンジすることができますが、同時に責任とさらに多くの労働を知るかもしれません。

人生の中に起こる全ての事には良い面と悪い面があるのです。

あなたがどちらの面にフォーカスしているかによって、人生の幸福度は変わっていくのです。

いつも神に目を向けて、あらゆるものは全て神からの贈り物であり、神は決して自分にとって悪いものを与えたりはしないことを知るとき、あらゆるものを受け止めて、まっすぐに進んでいくことができるようになるのです。

たとえ困難やストレス覚えても、これも神様が与えて下さった素晴らしい恵みだと思う時、その中に良い面を探そうとするようになります。

時には良い面を見つけることができず、ただ理解できないまま、それでも神がいつも最善を成してくださっているということを信じるだけの時もあるかもしれません。

でも、そうした姿勢を持ち続ける限り、やがて良い面に気がつく時が来て、改めて神の導きの素晴らしさを実感するのです。

どんな状況にあっても、神からの贈り物で溢れていることに気がつく様になる時、あなたの人生は輝きはじめることでしょう!

ちりを払い落として進む

“だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。”

マタイの福音書 10章14節

何かいいアイデアが思いついたり、人生の方向を転換しようとした時に、思わぬ抵抗にあったことはありませんか?

聖書の中でイエスも、度々様々な批判にさらされていました。

しかしそうした批判を受けるたびに、イエスはそれをただ無視して、払いのけて、前に進み続けたのです。

私たちも何か新しいことにチャレンジしようとしたり、それまでの常識とは違ったことをやろうとするとき、様々な批判にさらされるものです。

神に大きなビジョンを与えられたとき、それに向かって一歩踏み出したとき、それを止めようとする人たちに囲まれることでしょう。

どんな時も、あなたの進む道を理解して、心から協力者となってくれる人は、そんなに多くはないものです。

でも、神はいつも共におられて、あなたと共に力を合わせて歩んでいくことのできる人を必ず備えていてくださいます。

そうした本当に大切な人との関係を大切にする一方で、これまでとは違った、常識にとらわれない発想と行動をすることをただ単に非難する人たちとは、距離をおくのです。

人は安定を求める傾向にあるので、何か状況が変えられたり、持っている価値観とは異なったものに遭遇した時、なかなかそれを容易に受け入れる事はできないものです。

あなたが神に新しいビジョンを与えられて、これまでとは違った道を進み始めると、それをよく言わない人たちが現れるものです。

しかしそれはあなたが神の導きに従って、正しい道を歩み始めた証拠でもあるのです。

神に導かれて、新しいステージに登る時、ときには場所を変え、周囲の人を変え、そして新しい環境に飛び込む必要があります。

神は新しいところで、必要なものを全て備えていって下います。

新しい関係や場所や生活は、これまでとはまた違ったレベルの素晴らしい環境になることでしょう。

そうやって、あなたの人生は神によって導きられ、導かれ引き上げられ一つ一つ変わっていくのです。

どんな過ちをも乗り越えて働いておられる

“ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。”

マタイの福音書 26章75節

何かに失敗したり、うまくいかなかったりするときに自分を必要以上に責めていませんか?

神はあなたのすべての行いを知っておられ、その上でそれでもあなたと共にいて、あなたの人生を素晴らしいものにしようといつも働いておられるのです。

この聖書の箇所で、イエスが十字架にかけられたときに、人々がイエスのことを悪く言い始めると、ペトロも群衆の勢いに対抗することができず、いつもイエスと一緒にいた1番弟子ですとは、言わずに、私はイエスのことを知らないといったのでした。

イエスが十字架にかけられて、最も助けを必要とするときに、それまで1番弟子として使えていたはずなのに、師のことを知らないと言って裏切ったのです。

でもイエスは、そうなることを全て知った上で、ペテロも弟子として迎えていました。

そしてイエスが蘇った後に、1番の過ちをしたはずのペテロに、イエスは初めに名を呼んで迎えたのです。

このペテロのように、私たちも間違った判断をすることがあります。

神の最善の導きを知っていたにも関わらず、社会的な様々な影響を受けて、誤った選択をすることがあります。

それでも神はそのことを知って、共におられ、イエスがペテロに声をかけた時のように、いつもあなたに声をかけようと待っておられます。

神の働きを信じる時、神はそれまでの大きな過ちや間違った選択、すべての失敗を乗り越えて、さらに大きな計画を持って、あなたの人生を導いていかれます。

その神の働きを素直に受けるとき、あなたの人生は、神に導かれて、ますます素晴らしいものに変わっていくことでしょう。

世の中の情報に惑わされない

“神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。”

ヤコブの手紙 4章8節

神を信じるというと、何か怪しい宗教や、自分に変な影響を与えるのではないか、何か難しい修行をつまなければいけないのではないかといった、誤った社会から与えられた常識的な考えが浮かんでくるかもしれません。

何か大きな買い物をする時、または人生の選択をする時と同じように、何か自分のライフスタイルを根本的に変えるようなものに直面する時、必ずリスクとベネフィットを考えるでしょう。

そしてリスクの方がベネフィットよりも大きいと判断すれば行動に出ないものです。

神と共に歩むというのは、そんなに難しいことではありませんが、世間のいろいろな情報によってリスクの方を高く感じていると、自分の方でハードルを高くしてしまって、難しくしてしまっているものです。

でも、実は神はいつもあなたの近くにいて、そっと見守っておられ、どんな時にも力になろうとじっと待っておられるのです。

自分が作ってしまった壁を少し壊して、神に近づこうとするとき、不思議なほどの平安、希望、力が与えられます。

神と共に歩むことの素晴らしさをベネフィットとして理解し始めると、それまであなたの中で渦巻いていた懐疑と不安が一気に吹っ飛んで、自分の力でできる限界をはるかに超えた豊かな人生に導かれるのです!

大きなビジョンの先行きは不透明

大きなビジョンの先行きは不透明

“主のはかられることはとこしえに立ちみこころの計画は代々に続く。”

詩篇 33篇11節

神の働きを期待すればするほど、信じれば信じるほど、面白いことに、現実とのギャップは大きくなります。

なぜなら、神に与えられるビジョンは、常にあなたの思うところを願うところをはるかに超えているからです。神に大きなビジョンを与えられたとき、期待と希望に胸が膨らむと同時に、現状とのギャップに失望し、ストレスを覚えることもあります。

神の素晴らしいビジョンは、実は神に従うという、もう一つの大切な要素を抜きにしては起こり得ないのです。

神が素晴らしいビジョンを与えてくださった時、そこに至るまでの道のりは、必ずしも自分の考える通りのシナリオでは進まないことがあります。

ときには一時的に楽しくなかったり、不快に思ったり、苦労したりするところを通るかもしれません。

それでも神が一緒におられるから大丈夫、神の前に今できることを一生懸命にやろうと言って、日々神に導かれて歩むときに、神の働きは、最善のタイミングで一つ一つ進んでいくのです。

神にビジョンを与えられたら、自分の計画で進むのではなく、神のペースで事が進むことを同時に受け入れなければなりません。

私たちは短期的な視点でしかものを見ることができないので、しばしば神の大きな長期計画から目が離れてしまい、神とのつながりを失って、いつの間にか神の恵みから離れてしまうのです。

神と共に、神の導きに従って歩む人生を歩み始めた時、あなたの毎日の生活は、ますます素晴らしいものに帰られ、そして神の大きなビジョンは、一つ一つ実現に至ることでしょう。

日々の小さなことに対する見方が人生を変える

“そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」

しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」”

民数記 13章30~31節

人によって、同じ状況に直面していても 異なった解釈をするの見たことがあるでしょう。

この聖書の箇所でも、ヨシュアとカレブは同じ敵を見ていましたが、彼らの解釈は全く異なっていました。

一方は敵の強さと数の多さに緩んでいる一方で、カレブはその状況の中でも敵を打ち破って前進できると報告していたのでした。

そして そして彼らの解釈はただ単に自分たちの行動を決めただけではなく、周囲の人々に までも影響を及ぼしていったのです。

彼らの同じ状況に対する解釈の違いは、彼らが普段考えているものの考え方見方から生まれたのは間違いありません。

私たちの価値観は、日々の一つ一つの小さな事に どのように反応するかによってつくられているのです。

そして私たちの反応は、自分にかたりかけている言葉を聞いてみればわかります。

時に静かになって客観的に自分の頭の中に響いている言葉を分析してみてください。

不平不満で渦巻いているか、感謝と喜びで満ち溢れているか、すべては 同じ物事を違った角度から見ているに過ぎないことが多くあります。

また今のことに集中していないために、不必要に将来の不安に囚われたり、過去のことにとらわれたりして、正しい解釈ができなくなっていることもあります。

神と共に歩む時、希望と力を与える言葉が蓄えられるようになり、そうした言葉が不平や不満の言葉と置き換えられます。

神の導きに従った歩みは、将来の不安や過去の過ちから自分を自由にしていきます。

日々の小さな一つ一つのことに対して、いつも神を前に置いて歩むようになった時、あなたの物事の見方は根本から変わり、やがてあなたの人生の中に大きな変化をもたらしていくことになるでしょう。

神の働きを期待すればするほど、信じれば信じるほど、面白いことに、あなたの現実とのギャップが大きくなっていくのですね。なぜなら、神の働きは、常にあなたの思うところを願うところをはるかに超えているからです。人は、この神の素晴らしい恵と働きを聞いたとき、それを期待し、それに希望いただくと同時に、現状とのギャップに失望し、ストレスを覚えることもあります。

しかし神の素晴らしい働きは、そして神の素晴らしいビジョンは、実は神に従うと言うもう一つの大切な要素を抜きにしては起こり得ないのです。

神が素晴らしいビジョンを与えてくださったある時、そこに至るまでの道のりはいつも必ず自分の考える通りのシナリオでは進まないことを忘れないでください。

ときには自分にとって一時的に楽しくなかったり、不快に思ったり、苦労したり、散らかったりするところを通るかもしれません。

それでもそうした1日1日の中で、それでも神がいて下さるから大丈夫、神の前に今日できることを今一生懸命にやろうと言って、日々1日1日上に導かれて歩むときに、神の働きは、最善のタイミングで一つ一つをされていくのです。神にビジョンを与えられたら、自分の計画で進むのではなく、神のペースでことが進むことを同時に受け入れなければなりません。私たちは短期的な視点でしかものを見ることができないので、しばしば上の大きな計画から目が離れてしまい、そのことがいつの間にか神の恵みから離れることにつながってしまうのです。私たちがもう一度神に立ち返る時、神の素晴らしいビジョンは、神の計画とペースの中で起こることを想い起こすでしょう。そして神と共に神の導きに従って歩む人生を歩み始めた時、あなたの毎日の生活は、ますます素晴らしいものに帰られ、そして神の大きなビジョンは、一つ一つ実現に歌っていくことでしょう。

閉じられた扉

“あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。”

詩篇 73篇24節

神は時々人生の中で、新しい扉を開けるだけではなく、次のチャンスにつながる扉を閉じてしまうことがあります。

その時には、どうしてその次の道が開かれずに閉ざされてしまったのか、人間的な考えでは理解できないことがあります。

それでも神は最善の計画の中で、あなたの人生を導いておられるのです。

あなたが生まれてからこれまでの人生を振り返るとき、いつも扉が開かれてきたことばかりではなかったでしょう。

閉じられた扉が逆にチャンスを見出したこともあったでしょう。

予定の電車に乗り遅れたために、思いがけない出会いがあったとか、間違った道に進んだと思ったら、それが新しいチャンスにつながったとか、人生には全く予想できないような展開で、神の計画が進んでいくことがあります。

予期しない展開にストレスを覚えて、否定的な心に囚われて、神が用意してくださるチャンスを失うか、それでも神が新しい道を開いてくださっている、閉じられた扉も新しい導きへのサインなのだと信じて、今日の1日を感謝して歩むことができるかといった心構えの違いが神の働きの大きさを結果的に決めていくのです。 

私たちには短期的な視点でしか見えない時にも、神は人生を貫いてもっと長期的な視点で働いておられます。

全てが一時的であることを知って、神の導きに信頼して、今と言う時に全力を尽くすとき、あなたの人生はさらに豊かなものに変えられてていくのです。

しばらくの間現れて消える霧の様な存在にすぎない

“「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。

あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。

ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。”

ヤコブの手紙 4章13~16節

しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧のような存在だと言われたらどう思いますか。

何か自分の存在価値を否定されているかのような、この聖書の言葉には、違和感を覚えるかもしれません。

様々な自己啓発やスピリチュアルの方が、聖書の言葉を引用して様々な意見を述べていますが、この箇所を引用している本をほとんど見たことがありません。

現代の物質と富に溢れた世の中にあって、成長すること、大きくなること、豊かになること、リッチになることが良いこととされる時代にはそぐわないメッセージです。

聖書の中にはこうした人間の本質をついた言葉がたくさんあります。

「どんなことでも目標を立てて、ビジョンを持って頑張れば達成できないことはない」と言われると、力づけられますが、

この聖書の言葉のように、「自分のやりたいことではなく、神が自分にして欲しいことを謙虚にやり続けなさい」「あなたの存在は霧の様なものです」と言われると、あまり気乗りしないかもしれません。

でも実は、この聖書の言葉が素直に心に入るようになる時が、本当に神とつながっているサインなのです。

自分のエゴから離れ、自分を導いている大きな力の存在を心の中に受け入れる時、自然と自分の存在の小ささにを実感すると共に、エゴに基づいた欲から解放されて、本当に神に与えられた使命に気がつくようになるのです。

その時、あなたの心は忙しさに押し流されるのではなく、平安な心の中で、本当に大切なことに集中できる様になり、素晴らしい充実した人生が展開されていくでしょう。

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