“互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。”
コロサイ人への手紙 3章13節
許しは聖書の至るところで語られていますが、実生活において、自分に不利なことをされたり、理不尽なことを言われたりすると、それを許す事は難しいものです。
しかし、許しは、ただ単に神の愛を人々に伝える機会になるだけではなく、許しを通して、私たち自身が自由になることができるのです。
自分が不利なことをされたりしたときに、その人を許すと言う事は、結果的に、あなた自身が、その否定的な影響から自由になると言うことなのです。
許せないときには、自分がが正しくて、周囲が間違っていると言う、自分が作り上げた根拠が必ずそこにあります。
それは、物事に対する価値観の違いであったり、それまで自分が受けてきた様々な教育や影響や環境の違いから生まれる、理解できないものであったりすることがあります。
理解できないからこそ、自分の考えが正しいと思い相手の言うことが間違っていると思い、そしてそのギャップが人を許すことのできないことにつながっていくのです。
しかし、自分の考えがいつまでも完全だと思い、許せないでいると、そこから生まれた否定的な感情が、結局は自分の可能性を狭めてしまうことになるのです。
人はいくつものことを同時には考えれないので、否定的なことに目を奪われれば、奪われるほど、神の大きな恵みについて考えることがますます難しくなってしまいます。
視点を神に移す時、神はあなたが言われたことや、置かれた環境を、全て見て知っておられることに気が付きます。
そうすれば、周囲の人がどんなことを言おうと、どのような立場に置かれようと、神が全て見ておられ、コントロールしておられ、必ず最善に導いてくださるという確信を得て、否定的な感情から自由になることができるのです。
人を許すことができない時、いつまでも否定的な感情の中にとらわれて、悪いサイクルに入ってしまって、結果的に神に与えられた大きな可能性を狭めてしまっているのだと言うことを忘れないでください。
神に視点を向ける時、今の目の前にある小さなことには囚われなくなるでしょう。
そして、神の大きな計画とスケールに目を合わすようになり、そのことの実現のために得る力とエネルギーを救うことになるでしょう。
そうすれば、あなたの人生は、やがて神に導かれ素晴らしいものへと変わっていくのです。
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